松本城  日本百名城【29】



 観光日: 2015/3/14

 コース: 




 お薦め度: ★★★★★    / 見学時間: 1時間





松本城は梯郭式に輪郭式を加えた縄張りを持つ平城で、本丸・二の丸・三の丸
ともほぼ正方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を
欠いた凹型の二の丸が囲み、さらにそれを四方から三の丸が囲み、これらは
全て水堀により隔てられている。





また天守閣は国宝指定された5城のうちの一つである(他は姫路城、犬山城、
彦根城、松江城)5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で
連結し、東面に辰巳附櫓・月見櫓を複合した複合連結式天守で美しい。
大天守は石落としを付け、窓は突上窓、破風は、2重目南北面と3重目東西面に
千鳥破風、3重目南北面に向唐破風の出窓を付けている。





歴史は信濃守護小笠原氏により深志城が築城されたのが始まりとされるが
領主・城主/城代、及びその主君はころころ変わっている。

武田氏による信濃侵攻後、小笠原長時は追放され城代として馬場信春が入城。






武田氏滅亡後は城代馬場昌房から織田長益に明け渡された後、木曾義昌に渡り
更に本能寺の変後は上杉景勝や家康の働きで小笠原氏が旧領を回復し松本城と改名した。





1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ、
当時の松本城主小笠原秀政も下総国古河へと移り、代わりに石川数正が入城
石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行った。





石川数正は徳川家を出奔して秀吉の下へ走った経緯があり、天守の築城は関東
を領した家康に対する牽制・防衛のためだといわれている。
その後家康が江戸幕府を開き力を付けると、石川康長が改易となり、
小笠原秀政が再び入城。





大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の藩庁として機能した。


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